文章の対象を世間や他人から「自分」に
何本かエッセイ(風の)記事を書いてみた。
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・「見つめ合えなくてもいい人」「同じものを見られなくてもいい人」に出会ったとき、人は愛を知る
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こういった記事を書いてみようと思ったのは自分の記憶と感情を振り返る時間をつくろうと思ったからなのだけど、ではなぜそのように思ったのかというのはこちらのnoteに書いたので読んでいただければなと。 ☞ SNS時代の感情労働
こういった記事を書くときには暴露と「秘密の告白」の両方を書こうと思っている。暴露とは要するに日記的なもののことで、「秘密の告白」とは松浦弥太郎からの引用で自分で気づいたものの本質のことである。
上にあげた三本の記事はどれも家族との旅行やお出かけのときのできごとをログ的に書いたうえでそこからの気づきを最後に書くというつくりになっている。
私は心理士という肩書で仕事をしているのだが、その職業柄できごとをありのままに記述することは得意だ。だからどうしてもどの記事も暴露パート(ログの記述)が長くなってしまい、そのあとに書きたかった「秘密の告白」の部分が短くなってしまっている。
本当は「秘密の告白」の部分でもう一度ギアを入れてその部分を分厚くしたいのだが、それをやる根気と時間がなかったために、「暴露多め、秘密の告白少なめ」という仕上がりで世に公開することとなってしまった。
こういったことを受けて自分の中では「もうすこし暴露を少なめにして、秘密の告白を多めにしよう」とか「秘密の告白を分厚くするために、自分の経験の外側にあるもの、例えば読んだ本のことと経験を掛け合わせよう」と思っていたのだが、よくよく考えているうちにそれとはまた違った反省点が浮かんできたので今回はそのことを書き残してみようと思う。
何かというと「もっと自分のことを書かなきゃな」ということである。
これまで書いてきた記事はどれも「家族の観察日記」+「自分が考えたこと」というつくりになっている。この「家族の観察日記」を書いているということに書きながら違和感を抱いていたのだけど、それは慣れない作業をしていることへのむずがゆさのようなものだと思っていた。
これまで家族との日々を公にしたことのなかった自分が家族とこんなところに出かけましたよということを書くことに対して少なからぬ抵抗感を抱いているから、書いていて違和感を抱いている、そう思っていた。
しかしこれは慣れない作業への違和感ではないな、と思った。端的に言うとこれは「自分を売りものにせずに他人を売りものにしている自分への嫌悪」だということに気づいた。
この嫌悪感が生まれてくるのは、朝井リョウの『何者』を読んだからだろう。
この小説には世間を「観察」している登場人物が出てくるのだが、この小説を読みながら私はこの登場人物と自分を重ね合わせて同族嫌悪のような感情を抱いていた。
というのも私には世間や他人を観察し、分析するという癖がある。これを「心理士の職業病」ということにしたい気持ちもあるが、卵が先かニワトリが先か、元々そういう人間だったと言うこともできる。
『何者』を読んだあと自分の癖は周りからそう見えるのだなと思って自分の発信には気をつかっていた。特に分析を求めていない相手への通り魔的な分析はしないように気をつけていた(つもり)。
ところがいざエッセイを書いてみようと思うと家族をがっつり観察の対象としていた。観察、分析的に世間や他人を見てしまっている私が自分が見ている世界を記述しようと思うと、どうしても観察、分析的な記述になってしまう。そしてそういった分析を家族は求めていないのでこれは完全に通り魔的な分析となってしまっている。
これは自分が書きたい文章じゃないな、と思った。私が日常の気づき(「秘密の告白」)を記事にしようと思うと、そこには必ず観察されている人間、分析されている人間が出てきてしまう。そして悪いことにその対象がどうしても自分の家族になってしまう。なぜなら自分が記事として書き残しておきたいと思うほど感情が揺さぶられるのは家族とのひとときだからだ。
どうしたもんかな、と思った。
自分の記憶を振り返ることで感情の揺れ動きに気づき、生活に目を向けることが大事なんだろうなということを思っているのに、それをすると「観察、分析されている誰か」と「観察、分析している自分」を生んでしまう。
昨日はそんなことを思いながら、次男が昼寝をしている好きに母ちゃんタイムを満喫している長男とグッドイナフな母である妻が遊んでいるのを眺めていた。
実のところ、この「グッドイナフな母である妻」のことを書きたいな、と思ったのだが、そう思いながら「いや、それはちがうな」と感じたからこの記事を書いている。
「てめーもっと自分のことを書けよ、自分を削れよ」と思ったわけだ。
自分のことを曝け出さずに、観察者の視点から「うちの妻はこうだ」「うちの子どもたちはこうだ」「世間はこうだ」ということを書こうとしている自分とはおさらばしようと思った。
その観察、分析的な視線を自分に向け、「自分自身に対して自分はどう思ったか」ということを書いてみよう。ただしそれでは単なる暴露に過ぎないからそこには必ず「秘密の告白」を入れよう。「秘密の告白」を分厚くするために経験以外のことを掛け合わせよう。そんなことを考え、今回の記事を書いてみた。
普段、自分が学んだこととか世間や他人を観察したことを文章にするときには頭が疲れるのだが、この記事を書いているときには胃や腸がストレスを感じていることがわかる。自分を曝け出す、自分を削るということをしようとするとこういう身体反応が生じるのだな、ということが知れて面白いなと思うし、こういった「自分を削っている」実感があるからこそ、人からの反応があると嬉しくなってもっと自分を曝け出してしまうのだな、と思った(脳の報酬系の仕組みとかを知っていないとだいぶ危うい)。
私は暴露でインプを稼ぎたいわけではなく、日々の気づきを文字として残し、その過程で自分の感情がどう動いたのかを見つめ、それを通して日々の記憶を重ね、地に足のついた生活を送っていきたいだけなので、今後も無理なく文章を書いていきたいと思う。
今回はその文章の対象を世間や他人から自分にしたよということを書きたかったので、書いた。
そんな自分が今後なにを文章として残すのか、見当がついていないので自分としても楽しみではある。くれぐれも胃と腸はご自愛ください。


